解説 禅の発想とは何か? 禅僧が我々のこころを打つのは、そこにごまかしのない、
ぎりぎりまで煮詰めた真実があるからだろう。ぎりぎりまで真実を煮詰める作業として、
厳しい自己修練があるのだ。
例えば坐禅、坐禅はひたすら坐って何かをひとつ、己のうちに真理を見いだすのが
目的なのであって、体を痛めつけたり理屈を覚えるのが目的ではない。だから真理を
つかむ方法は坐禅だけには限らない。
労働を通じてでも、武道、芸道を通じてでも良い。
それによって掛け値なしの真実が見いだせるのであろう。
禅には多くの落とし穴があるという。
鉄舟の言う「なぞなぞに毛の生えた」禅が、まかり通っているから。
やはり絶対的な「無」こそが禅の境地なのであろう。
ヘリゲル(ドイツの哲人)が書いた一節が
「禅」を理解しやすく伝えている。
無になるというのは、単にそうなったと
思い込むのではないこと、無になり、
実際に無に帰せられるのであって
単に 自分を無意味な有と感じるのではない
ということ。 禅に於ける真の沈思に於ては
あらゆる思考と意欲だけではなく感情までも
一切を無に帰す・・・それを経験したことの
ない者には、到底、言い表すことができない
という事実をもすら、知ることもできない。
禅の書物には何故逆説が多く含まれているのか、参禅者が底無しの
ものを思考をもって究めようとすることを最終的に断念するまでは
それら逆説で自らを苛むのか、それらのことを理解するためには、
それらを自ら経験(体験)していかなければならない。 と記載
されている。なるほど でした。21世紀も野狐禅している洋彰庵
2001-03/20も真理(しんり)は見解(けんげ)せず