臨済宗

戻る 栄西禅師(1141-1215)

栄西禅師 :永治元年(1141)備中の吉備津神社の神官賀陽家に生まれる。14歳で比叡山延暦寺で受戒、2度入宋し、臨済宗黄龍派の伝法を受ける。(禅を学ぶ)

博多の聖福寺でその教えを説き、自信を深め鎌倉に赴き幕府の中核に接触。北条政子の支援を獲得し京都に建仁寺、鎌倉に寿福寺の禅寺を開く。

その後:両地で禅宗(臨済宗)の発展の基礎を築く。

当時禅というのは全く新しい教え。平安時代には真言・天台の2大宗派が幅を効かせ、一方では華厳・律などの奈良系仏教もまだまだ勢いを持っていた。庶民の中に念仏が広まり始め、禅信仰はまだ育たなかった。

栄西禅師はできるだけ既存の仏の教えと対立しないように振舞った。栄西禅師が開いた寺も完全な禅寺ではなく、天台や真言も学べる寺にした。そして、この栄西禅師の努力で、日本に禅の土壌が形成されていった。



禅の流れ

禅宗は達磨大師によって始められた。(ダルマ人形でおなじみ)

五祖弘忍のあと、神秀の北宗禅と慧能の南宗禅、南宗禅の方が発展、慧能を六祖として、「祖」と呼ぶのは慧能まで。七祖は臨済宗祖と曹洞宗祖に別れる為に存在しない。

この慧能の弟子の中で行思の系列から曹洞宗や法眼宗などが派生。また慧能の弟子の懐譲の系列から臨済宗や為仰宗などが興る。

臨済宗は黄檗希運の弟子・臨済義玄から始まるが、黄檗と臨済の師弟の激しいやりとりは有名らしい。



臨済の禅

禅宗の修行の基本は坐禅。ひたすら座って瞑想をする。臨済宗ではその際にヒントとなる問題が与えられる。これは公案(こうあん)と呼ばれ、一般に難解なものが多い。

例えば両手で手を打つのではなく、片手で手を打つとはどういうことか、という公案。曲がった松の木を真っ直ぐに見なされや、という公案。

公案に「正解」はない。偉いお坊さんが書いた解説を読んでも答えは得られない。考える課程と、どこまで思索を深められるかというのが問題。

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