曹洞宗


戻る 曹洞宗の若干の補足

曹洞宗では、日本で曹洞宗を興し永平寺を開いた道元を高祖、そのあと曹洞宗の普及に努め総持寺を開いた瑩山を太祖と称す。そして永平寺と総持寺はともに大本山とし両者は同等の地位で一派を維持。このため、曹洞宗は仏教の諸派の中では唯一、単一の宗教団体で単一団体としては日本最大の規模。平成12年度調査

道元禅師(1200-1253)

道元禅師は正治2年(1200)京都に生まれる。父は内大臣久我通親、母は関白藤原基房の娘。名門の出、3歳で父が、8歳で母が亡くなり世の無常を感じ、14歳の時に比叡山に出家。

その後臨済宗を開いた栄西を訪ねる。しかし栄西が(1215)入寂、結局3年後栄西の弟子の明全の弟子になり、間もなく禅の奥義を極めたとして許状をもらう。

その後明全が中国に留学(入宋)時、道元も同行。中国で偶然天竜山の如浄に出会う。如浄は道元に印可を与える。

道元は如浄のもとで2年間修行を積み「身心脱落」という境地を体験。そして帰国後、34歳で興聖寺を建て、ここで座禅を中心とした仏教の伝道(曹洞宗)を開くが、既存仏教と対立することになり、興聖寺は焼き討ちにあう。波多野義重(信者の一人)が越前の領地を寄進。感激した道元は越前に移り、その後曹洞宗の大本山となる永平寺を建立。

道元禅師は興聖寺で10年、永平寺で10年、弟子の指導と一般の人の教化につとめ、建長5年(1253)8月28日若くして入寂。

瑩山紹瑾(1268-)

瑩山は文永5年(1268)越前国で曹洞宗の信者の家に生まれた。永平寺に上り修行。永仁2年加賀の大乗寺で「平常心是道」という公案を学んでいる時に大悟。これにより大乗寺の後継者に任命された。

その後羽咋市に永光寺、更に門前町に総持寺を開いたほか各地に寺院を創建。積極的な活動は弟子たちに受け継がれ、曹洞宗は広く普及した。瑩山禅師の二大弟子である明峯禅師と峨山禅師は、檀家を大事にする寺院運営を行い、曹洞禅は民衆に広まった。

なお、総持寺は明治時代の火災のあと神奈川県横浜市鶴見区の鶴見が丘に移転した。15万坪の敷地に広大な境内。太祖堂は日本一の大道場として有名。尚元の場所(石川県鳳至郡門前)は現在総持寺祖院。



臨済宗と曹洞宗の禅風の違い

臨済宗と曹洞宗は元々ベースにした中国の宗派(慧能の弟子で行思の系列から曹洞宗、懐譲の系列から臨済宗)に距離があるので異なる面が多々あり。

例えば坐禅、臨済宗は壁を背に、曹洞宗は壁に向かって座す。坐禅と棒で打たれるこの棒を【警策】という。 さてこの「警策」の読み方、臨済宗では「けいさく」、曹洞宗では「きょうさく」

両派の最大の違いは、臨済宗では公案を非常に重視しているのに対し、曹洞宗では公案は使うが、ひたすら坐禅することを重視する。臨済禅は段階的に悟って行くという考え方がベース、曹洞禅では悟りに段階はないと考えている。このあたりに悟りに対する考え方の根本的な違いがあるようだ。

戻る

洋彰庵本舗