食べることは本能的な欲求だから、
その姿には最も良く己がさらされる。
食べるという行為との関わり方によって、
人物の境涯、程度といったものが露になる。
最も簡単なようで、実は最も難しい食。
そこで禅は食そのものが修行であると主張。
道元禅師の「赴粥飯法=ふしゅくはんぽう」
冒頭では求道と食をとることは同じという。
浄・不浄やうまい・まずいといった事は
食の本質ではない。食べるという行為そのもの
の中に極めなければならない何かがある。
これを(浄穢不二=じょうえふじ)の修行という。