禅の言葉に戻る  慧能【本来無一物】

■ 本来無一物(ほんらいむいちもつ)の話 ■

慧能(えのう)(638〜713)

中国禅宗の第六祖、六祖大師ともいう。諡(おくりな)は大鑑禅師。
禅を端的に言い当てたこの語は、慧能禅師の言葉。

これは慧能が師の第五祖弘忍(ぐにん)禅師から法を継ぐ契機となった詩偈(しいげ)に由来、
禅の古典『六祖壇経』には次のように掲載される。

当時、 弘忍禅師のもとには七百人余の弟子達が厳しい修行の日々を送っていた。

ある日、師は後継者を決定するため「悟りの境地を示した詩偈を作れ」と弟子達に命じた。

学徳に優れ信望厚く、彼こそが六祖に相応しいと噂の神秀上座(じんしゅうじょうざ)は次のような詩偈を作った。

『身はこれ菩提樹、心は明鏡台の如し、時々に勤めて払拭して、塵埃をして惹かしむること莫れ』
この詩偈を聞いた弟子たち、誰もが賞賛した。

ただ一人それに背く者がいた。寺男として米つき部屋で黙々と働いていた慧能(えのう)。
「よくできているが完全ではない。私はこう思う。」と言い、無学文盲にて、近くの童子の筆の助けを借り、
『菩提、本(も)と樹無し、明鏡も亦、台に非づ本来無一物 何れの処にか塵埃を惹(ひ)かん』 との詩偈。

神秀は、身は菩提(悟り)を宿す樹、心を曇りなき鏡に例えて、
煩悩の塵や埃を常に払い清めるが如く修行の段階を経て
悟りにいたる境地を詩偈で示した。

慧能は「菩提はもとより樹でなく、鏡もまた鏡でない。本来、無一物であるのに、
どこに塵がつくところがあろう」と 頓悟(とんご)の境地を示した。換言すれば、

悟りや煩悩の概念に囚われた世界をきっぱりと否定し、「悟り」「煩悩」ばかりか
「一物(いちもつ)も無い」と言う考え方さえ存在しない、一切の囚われを
否定しつくした世界こそ、禅である。と説いた。 結局慧能が第六祖に選ばれた。

神秀は北宗禅の祖となったが、慧能は南海に帰り、民間にあって説法し多くの信者を集めた。

慧能の禅は、南宗禅と呼ばれ、臨済宗や曹洞宗など五家七宗禅は皆南宗禅から由来している。

■ 無一物中無尽蔵(むいちもつちゅうむじんぞう)■

そして、「無一物中無尽蔵」の豊かで深みのある禅の世界は、知識や学問の
有無には無関係に万人の下に平等に在る。ということを慧能自ら提示した。

物質文明の生活に浸りきって、知識・分別に囚われた生き方をしている現代人の我々にも
「無一物」の世界は身近に存在する。全身全霊を打ち込んだ徹底集中、慧能の米つき仕事
のように一つの物事に自分の全生命を賭けてやり遂げようとする心こそ「無一物」そのもの。
自分の中にあるそうした力を信じきって、 囚われない心で、豊かに生きていきたいものだ。


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