『無門関』では、趙州和尚と師の南泉普願禅師は
次のような問答をしています。
趙州・・「如何なるか是れ道」
南泉・・・「平常心是れ道」
趙州・・「還って趣向すべきや」
南泉・・・「向わんと擬すれば即ち乖く」
趙州・・「擬せずんば、争でか是れ道なることを知らん」
南泉・・・「道は知にも属せず、不知にも属せず」
知、不知は論理で区別できる地平の事柄ですが、道というものは
その地平には存在しないのです。しかも、その論理の及ばない次元について、
文字通り語ることもしない。というところが、この問答なのでしょう。
ここで言われている「道」を、仮に無意識を含めたとして、
擬すことや知を【意識的な自己の精神の活動】としてみましょう。
すると道は、知の地平にはない、しかし「不知」と言えるのか?
というと・・・そうでもない。 ん〜〜〜〜〜〜〜〜!!!
平常心(びょうじょうしん)是れ道(どう)
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道元が入宋(留学)中に
ある老典座和尚に問う
・・「いかならんか、是れ文字」
典座和尚・・「一二三四五」・・・
頭にある文字という(知識)なんてそんなものですよ。
むきぃ〜ぃ〜〜〜〜〜〜〜!!!
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一休禅師と蓮如上人(浄土真宗)
「馬じゃげな」・・・・・・
・・・・・・そうじゃげな。
馬は馬、そう否定も肯定もせずにありのままを・・・
zzzわぉ〜〜〜〜〜〜〜!!!
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ほんの付け足し
洋彰庵、心境を問われたら「平常心です」と答えるでしょう。
この場合の平常心は普段のとおり、格別の構えた思いも無ければ、
気負いもなく、淡々とした心境であるという意味で用います。
ただ、禅語としての【 平常心 】(びょうじょうしん)とは
淡々として、全く心が動かないとか、動じないの意ではないようです。
ありのままの心、ありのままの姿を認め受け入れるとき、
そこには自らが否定し、排除しようとした自分の心はなくなり、
障りとする緊張感はなく平生の平常心があるのみとなる。
・・・とはいえ、「平常心」は普段のまま、
現在の煩悩心のそのままではない。
要は大自然の運行、自然法爾のままに、一切をみ仏にお任せ
しましょう。という「その心そのままが平常心」なのでしょう。
Books Esoterica3や『無門関』西村恵信訳注:岩波文庫 1994. より