休息の話に戻る 【無念無想無・無我無心】

■ 『瑩山禅師法語』無念無想無・無我無心 ■

「瑩山禅師法語」に
「無念無相一念不生というは、念をやめ、
妄想をのぞいて、木石の如くなるを、
無念無想と云うにはあらず」

と示されています。
「木石の如くなる」ということは、「・・・の如くになりたい」
という行為が作り上げた感覚的なものであり、
無念無想というものではないのです。

「・・・の如くなる」といった思いは妄想であり、
自己陶酔以外のなにものでもないという事。
念も妄想も生きているという真実の実体であり、表情でもあるからです。

尽十方界の無量無辺無念無相・・・の真実を表現すれば
無所得・無所悟(得るところ無く、悟るところ無し)の坐禅に辿り着きます。

「只管打坐」の坐禅を行ずることは光明蔵を正しく受容することであり、
それを瑩山禅師は光明蔵三昧と表現したのです。

「無念無想の実践」

ただ坐る。達磨大師は黙して9年坐っていたのです。
でも、この忙しい時代、黙って手を組み足を組んで
坐るというのは「無駄な時間」だと人は言います。
それでは人は、何をするか。
五欲を満たすことしか考えない。

附記、五欲など儒学的な記載(詳細説明)は
普通モードで、洋彰庵の益軒養生訓のページを
参照してください。

じゃ黙して坐ってみる。すると雑念が浮かぶ。
あっ!北帰行が聞こえてきた。
いまは〜黙して・・行かん〜〜〜はるか・・
ヲイヲイ、滝伸次さん・・いや小林旭さん・・
黙して・・行かん〜イカンイカン浅丘ルリコが。

息を調えて静かにしても、このように雑念が’’

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窓は 夜露に濡れて
都 すでに 遠のく
北へ帰る 旅人ひとり
涙 流れて 止まず

夢は 虚しく消えて
今日も 闇をさすらう
遠き想い はかなき希望(のぞみ)
恩愛(おんあい)我を去りぬ

今は 黙して行かん
なにを また語るべき
さらば祖国 愛しき人よ
明日は 何処の町か
あすは いずこの町か

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下は付け足し洋彰庵スペシャル

富も 名誉も恋も
青き 憧れの日の
遠き想い 遥かな果てに
追われ 闇をさまよう 2001-5/5

わが身 入るるに狭き
自我を 去らむとすれば
せめて 名残りの眞理(しんり)
尽きた 我が身と慕情
明日は 異郷の旅路  2001-9/9

  イカンイカン替え歌も異観。。・・

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ええぃっ。人間・・生きとる以上は・・
雑念が・・・頭に浮かぶのは当然です。

道元禅師も「妄想(もうぞう)自ずから
断除(だんじょ)の法を帯せり」と。
頭の中にくるくる巡る思いは、向こうから
退屈して逃げてしまうぞ、という事。

だから、酒を飲みたいと思う時、思わせたら良い。
遊びたいと思うたら幾らでも自分のこころに思わせれば良い。
五欲を満たす種々の事・・・思いたいだけ思わせておれば良い。
そして身体はそこにジッと坐っておったら良い。
妄想・・邪念・・何時間も思い続けられるもんじゃない。

「無我になれ」「自我を無くせぃ」「自分を忘れることが大切だ」
といわれて、簡単に自我を無くすことができれば、人間悩むことなどありません。
「無心」になれと言われて「無心」になることができれば人生に悩みなどありません。

頭で理解しても、自分に執着してしまうところに人生の悩みがあります。

他人から「そんなガラクタ執着心は捨てろ」・・・云々と言われても・・
捨てられないところに悩みがあります。

人は自分の悪しき記憶を忘れようとして忘れられるものではありません。

ひたすらにそれらを忘れようと頑張る行為は意に反してそのことに囚われてしまったのです。

例えば不眠症:「眠ろう眠ろう」と努力しすぎるから眠れない。
眠ろうをする過剰な意識は、余裕のない緊張した神経症的な気張りです。
そして【寝られないかもしれない】という不安神経症が出てしまいます。

そして・・・我を捨てる(無心になる)ことによって、
自己と一輪の花のいのちとを【等格に置いて観察する】ことが可能になります。

道元禅師はここを「仏道を習ふというは自己を習ふなり」
釈尊は、「天上天下唯我独尊」ということで表現しています。 がしかし

凡人y庵には到底到達し得ない難儀な事なのです。 2001-9/10

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Books Esoterica『瑩山禅師法語』等より

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